2012年4月28日土曜日

新世紀エヴァンゲリオンテレビ版最終回について なぜ、「父にありがとう 母にさよ...

新世紀エヴァンゲリオンテレビ版最終回について



なぜ、「父にありがとう 母にさようなら」なのですか?







テレビ版の25話・26話はシンジの心情描写にほぼ終始していますが、血を流すミサトやリツコの絵がわずかに挿入されることなどから、劇場版と全く同じ出来事を、異なる視点から描いたという見方ができるかと思います。



受話器越しの登場人物からの「嫌い」という言葉や、シンジの自分に価値を見出せないという独白。シンジの物の考え方に対する否定の言葉が延々と続きます。

補完が始まり他人の自我との同化が始まったことで、まずは個人の持つ価値観の危機が生じています。



その後「何を望むのか」「何が欲しいのか」という問いかけ。

裸のミサトやアスカ、レイが出てくることから、生命の根源的欲求であるリビドー(生の欲求・性への欲求)が影響を受け始めたことが判ります。他者との融合がさらに進んだ状態ですね。



最後に紙にペンで描かれたようなシンジが「自分があいまいになっていく」という発言。だんだん溶け合う心の数が増えてきて、シンジの自我が失われていくところですね。顔の輪郭もなくなっていきます。



しかし、ここでシンジは他人のイメージが自分を作っており、自分のイメージが他人を作っていることに気付きます。「バカシンジ!」の言葉ともに目覚めて、“学園エヴァ”と呼ばれる寸劇の始まりです。

劇場版でも自分の意思で自分の姿を取り戻したとき、目覚めの表現があり、目の前に自分の体と一部が繋がったレイ(リリス)がいました。そこでシンジは「握手」という、自分と他人とを区別した上で他人を認め合う行為をし、すべての生命の母であるリリスと、母であるユイに別れを告げて、人の姿を取り戻しました。



テレビ版では“学園エヴァ”で自分の別の可能性に気づいたシンジの、最後の迷いである「みんなは僕が嫌いじゃないのかな」という問いかけに、登場人物らが好意的な返事をしていきます。

ここで大事なのは、返事をしているキャラクタ達は、彼ら本人ではなく、シンジの中にある「他人のイメージ」だということですね。一番最後でシンジに拍手をするのも同じ。だから既に死亡した加持もいます。

シンジが自分という人間を客観的に、肯定的にとらえられるようになったということです。



父のおかげで、自分の可能性に気付くことができた→「父にありがとう」

自分の価値を、エヴァに乗ることと別のところに見出せた→「母にさようなら」

「すべての子供達に~」は、たぶん監督から視聴者への言葉でしょう。



徹底的にシンジの内面のみを描いたテレビ版最終話ですが、もしかしたら彼が一人の人間として目覚めた後に広がるのは、劇場版と同じ赤い世界なのかもしれません。








父には「こんな使徒との戦いがあったがアスカやレイなどに会う出会いもあった」その機会を作ってくれた父にありがとう

母には単純にシンジの母は死んでいるのでさよなら

だと思う







たぶん自分を生んでくれたことに対しての感謝だと思います

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