2012年5月5日土曜日

新世紀エヴァンゲリオン劇場版 Air/まごころを、君に」のラストシーンについて

新世紀エヴァンゲリオン劇場版 Air/まごころを、君に」のラストシーンについて

最後アスカが気持ち悪いといったんですが

あれの意味がわかりません!!!

あれはいったいどうゆう意味なんですか?

しかもなぜあそこにはシンジとアスカしかいないのですか?







地球に本来住むべき生命体が、アダムの子である使徒だったことを知っていたゼーレは、人類を原罪を持つ誤った生命体だと考えており、《神》の力ですべての人類の魂を元々あった場所に集めて融合させ、正しい在り方の単体の生命体(=使徒)に人類を生まれ変わらせようとサード・インパクトを引き起こしました。

シンジは《神》の依代とされ、その魂は《神の自我》として人類の未来の決定権を委ねられました。

ゼーレの思惑では、絶望に包まれたシンジは、全人類の魂の融合(あらゆる境界や区別の消滅)を願うはずでしたが、アスカの声で目覚めたシンジは他人のいる世界を望み、補完を拒否しました。



「人が元の姿に戻る」ことを決断した本人であるシンジは真っ先に元の姿を取り戻し、また元々強力なATフィールド(自分の精神や肉体の在り方についてのイメージ)を持っており、補完を良しとしない姿勢を見せていたアスカも、すぐに復活したわけです。

他の人類については、新劇場版の製作総指揮の鶴巻和哉や、『魂のルフラン』を作詞した及川眠子の発言によると、監督は「2人以外みんな死んだんです」と考えているとのこと。

ただ、これだと作中の碇ユイの発言「誰もが元の姿に戻れるわよ」が、意味のない慰めだったことになります。

どちらの説を補強する表現も作中にはないので、このへんは視聴者の判断ですね。



さて、元の世界に戻ったシンジですが、気がつけば自分を嫌っているに違いない(とシンジは思っている)アスカと二人きりです。



シンジがアスカの首を絞めたのは、嫌われ、捨てられる恐怖から逃れるためだと思います。

他人のいる世界を望んだのは他ならぬシンジですが、それは同時にATフィールドの復活でもあります。

ATフィールドが「Absolute Terror=絶対の恐怖」の名を持つ通り、他人の存在とは本質的に「恐れ」であり「気持ち悪い」ものです。



一方、アスカがシンジの頬を撫でたのと「気持ち悪い」については、脚本に書かれていた本来のアスカのセリフ「あんたなんかに殺されるのはまっぴらよ」がどうにもしっくり来ず、どうしようかと考えているときに庵野監督と、アスカの声優の宮村優子さんとの会話から生まれたものだそうです。

庵:「自分が寝ていて、いつでも手を出せる状況なのに、ただ自慰してる男を見たらどう思う?」

宮:「気持ち悪い、ですかね」

庵:「そうだよねぇ」

という会話だったとのこと。



アスカは前々からシンジに好意を抱いていましたが、それは「アンタが全部私のものにならないなら、私は何もいらない」という発言からも解るように、シンジに自分のことを特別な人と想ってもらいたいのであって、「誰でもいいから優しく接してくれる人が欲しい」と考えるシンジの慰め役になるのは御免なわけです。

最後の場面、あの時点ではまだシンジは「誰でもいいから他人を望んだ」だけです。



それまでのアスカなら、そんなシンジを好意の裏返しとして頑なに拒否していたでしょう。

しかし弐号機との同調や補完を経て心の余裕を得たアスカは、目の前の情けない少年の頬を「嫌ってないよ。怖がらなくていいんだよ」という思いで撫でたのだと思います。

これによってシンジも自分自身を許すことができ、また元の世界を願った理由である「人は傷つけ合うばかりじゃないかもしれない」という微かな希望が幻ではなかったと気付いて、号泣したのでしょう。

しかし自分の上で勝手に自己完結して泣き崩れるシンジの姿は、やはり哀れで不可解なものです。

結果的に、口を吐いて出た言葉が「気持ち悪い」だったのだと思います。



シンジにとってアスカは自分の価値を認めてくれる大事な人になりましたし、アスカにとってもシンジがやっと自分のことを特別な人として想ってくれるようになったわけですから、一応ハッピーエンドと言えるのかもしれませんね。

心からの想い(まごころ)をそのままに伝えたい他人(君)がいることの素晴らしさ。あるいは「他人がいるってのも悪いばかりじゃないかもしれないよ」ということ。

それがサブタイトルである『まごころを、君に』の意味でもあるのではないでしょうか。








私の考えだと、アスカが「気持ち悪い」と言ったのは、シンジが「また僕を叱ってよ・・・」的なコトを言っていたの対しての「気持ち悪い」だと思います。



アスカとシンジだけなのは、・・・たぶん、アスカは何も望まなかったからだと・・・



私もそこらへんは難しくて説明できません。



スミマセン・・・・







●庵野さんは、「僕、人間にあまり興味がなかったんでしょうね。それが自分の話を始めたときに、途中で伝える言葉がほしかったんですよ。それで一番使いやすいと考えたのが世間一般で使われている心理学用語と言うことばだった。そして本をあさり始めたんです。」レイのモノローグは友人が貸してくれた『別冊宝島』の精神病の本からインスパイアされた、と言ってました。

庵野さんの言う「ライブ感覚」そのままにシンジ君の苦悩などの諸々は当時の庵野秀明そのものだったようです。ご自身「『エヴァ』のキャラクターは全員、僕という人格を中心にできている合成人格なんですけれど…シンジ君は今の僕です」とも。

鶴巻和哉さんはTV版最終2話について「「スケジュールは破綻して作画枚数は落ちていくし、クォリティとして残念な所はあるけど、絶望的に追い詰められていくスタッフの緊張感は確かにフィルムに出ている。」「制作体制がガタガタになってきた頃に『満足なものが出来ないのなら、これ以上作る意味がない』って意見もあったけど、そうは思えなかった。『ダメになっていく過程も含めて見せていけばいいじゃないか』と。満足なものが作れないことも含めて作品だろうと。」

スタッフさんの中には終局に対して賛否両論あり、劇場版よりもTV版の方が楽しかった、とする意見も多かったようです。

ちなみに庵野さんの次回作「彼氏彼女の事情」もラストはTV版みたいな終わり方してた。



●あるよ。



●ここは各個人で捉え方は異なるのであくまで私見ですので参考程度に。

エヴァとはシンジ君が大人になっていく過程を描いたものと考えている。リツコがヤマアラシのジレンマの例を挙げるように近づいたり離れたりを繰り返しながら、適度に暖かく、棘の痛みを我慢できる距離を見出そうとするもの。

エヴァの世界設定では使徒は「生命の実」を得た存在、ヒトと同等の可能性を持った別の形の人類。人類も生き残るべくリリスとして人類補完計画を発動し、大きな一となる。

シンジ君はEVAに乗ることで他人に自分の価値が認められている、と思い込む。しかしそこに価値を認めているのは自分だけで周囲は誰もそうは認めていない。そこで「僕の価値って何?」と悩む。EVAに乗れなくなったら、他には何もない、何もない自分は嫌い、だから皆も自分を嫌い、EVAが自分のすべて、EVAそのもの。で世界は閉塞する。

自由の世界、何もない世界、自分がない、自分を象るのは自分の心とそのまわりの世界だから、他人がいなければ自分がいない、他の人たちが僕の心をつくっているのも確かなこと、

世界は一定ではない、時間、環境、こころの持ちようで変わる、現実は悪くないかもしれない、自分で自分が嫌いなのは歪められた真実のひとつに過ぎない、…

一旦はヒトの形を捨て新たな段階へと人工進化を果たそうとする途中、シンジ君は個人であることを選んでしまったため、碇シンジとして生まれ直した、ということかな。再誕生おめでとう。最初の他人となってしまった母、さようなら。

庵野さん曰く「それで最終的には自分が自分を認めてあげればいいんだ、そう思わないと生きていけないからそう思う、と。この世界に本当のオリジナルは、自分の人生しかないですから。 …僕らには(テレビという)魔法の箱の中にしか語るものはない。情けないんですけど、仕方ない、そこを認めたところから、スタートだと思うんです。」



●1「TV版 新世紀エヴァンゲリオン 26話」

2「劇場版 新世紀エヴァンゲリオン シト新生 DEATH AND REBIRTH」(DEATH はTV版の総集編、当初はREBIRTHのみで完結するはずであったが、リメイクの内容が予定以上に膨らみ、25話の2/3程度の部分のみにとどまった完結編第1弾)

3「劇場版 新世紀エヴァンゲリオンTHE END OF EVANGELION Air/まごころを、君に」(TV版25,26話のリメイク完結編第2弾

4「REVIVAL OF EVANGELION新世紀エヴァンゲリオン劇場版 DEATH(TRUE)2/Air/まごころを、君に」(劇場版の本来の形)

10年ほどの時をおく 新劇場版4部作

5「ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序」

6「ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破」



●漫画「新世紀エヴァンゲリオン」画:貞元義行

原作はアニメ。連載開始時アニメは第拾話くらいまで形になっていた、STAGE7「閉じゆく心」の最後は『24人のビリー・ミリガン』に影響を受けてのシンジ君述懐シーンとなり、その頃のアニメ拾六話から方向転換が始まったようだ。

その他作品群は以下を参照 解説本、資料集、庵野監督やスタッフの方々のインタビュー、プラモ作製ガイド、ゲーム、パチンコ等々。

Wikipedia新世紀エヴァンゲリオン

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E4%B8%96%E7%B4%80%E3%82%A8%E...







まず二人が生き残っているところから説明しましょう。



ロンギヌスの槍と融合することによって、初号機は神に等しい存在となります。その時点で、世界の行く末は全てシンジに託されました。(本人にその自覚はありませんでしたが)そして、シンジが望んだ「全てが一つとなった世界」が実現します。しかし、シンジはそれは自分の望んだ世界ではないと拒絶します。それはサードインパクトを拒絶することにも繋がります。そしてシンジはLCLになることを免れることができました。

また、シンジが望んだ世界を拒絶したことによって、サードインパクトは中断されました。



次にアスカです。

アスカはシンジに対し、密かに好意を抱いていました。そして、それはいつしかシンジの全てを自分の物にしたい、という願望へと変わっていきます。勿論、シンジにそんな気はありません。シンジがそれを拒否した時点で、アスカの願いはちぎれます。シンジの全ての物、ということは、シンジが作りだした世界をも含みます。それが手に入らない=シンジの世界を拒絶することに繋がります。

そのためにアスカは生き残ることができました。



シンジは自分の望んだ世界を拒絶しましたが、では次にどのような世界を望んだのかというと、「また自分が傷ついてもいいから、他人のいる世界」を望みます。しかし、その時既に手遅れで、生き残ったのはシンジとアスカだけでした。(他の人間は全て、LCLとなりました)

そして、隣にいるアスカを見て、再びシンジは他人の恐怖に襲われます。そしてシンジは、唯一の他人であるアスカを殺そうと、首を絞めました。しかしアスカは、恐怖におびえるシンジに対し、「怖がらなくても大丈夫」という意を込めてシンジの頬を撫でます。その意を汲み取ったシンジは首を絞める手を緩め、そのままアスカの上で泣きだします。その光景を見たアスカが、「気持ち悪い」と言って完結しました。







シンジがアスカに傷つけられたくなくて、いなくなっちゃえと首を絞めた。



しかし殺す勇気も持てずに泣いちゃうというエンディングです。



あれだけ決意あること言っといてやっぱりヘタレだった。



ある意味シンジらしいラストです。



ただそれだけです、それ以上の深い意味はまったくありません。青春ですから、、、、



いけない質問に答えていなかった。



アスカが気持ち悪いといったのは病室の一件思い出した事と今の首絞めの感想ですね!

(何独りよがりな事やってんのよ!みたいな、、、、)







最初の質問ですが、それは単にアスカの体の上でシンジが泣いていたからだと思います。(ちなみにシンジがラスト首を絞めますがあの時実はアスカは別の言葉を言う予定でその言葉は「あんたなんかに殺されるのはまっぴらよ。」という予定でしたが後に「気持ち悪い」になりました)

二つ目の質問ですがあれは作者さんが「次ができないように殺しちゃうんです。もう疲れましたから。」とコメントしたからだと思います。







いきなり結論だが、エヴァンゲリオン」のテーマは、一言で言うと「母胎回帰願望の克服」だった。

完結編である「The end of Evangelion」俗に言う「夏エヴァ」に描かれたように、作中のキーワードとして繰り返し仄めかされた人類補完計画とは、「出来損ないの群体として行き詰まった人類を強制進化させる」ことだった。その方法は、エヴァンゲリオンとロンギヌスの槍の力を使って、個人を隔てる心の壁=ATフィールドを取り払い、全てを一つにする・・・人類(使徒)の初源の姿であるリリスの卵へ回帰させ、最初からやり直しを図る、というものだった。



しかし結局、補完計画は失敗に終わる。シンジが自らの意思で、LCLに還元されることを拒否したからだ。シンジが己の姿を取り戻したこと、母そのものであるエヴァ初号機との別離を選んだことからもそれは明らかであるが、物議を醸したラストシーンをもう少し細かく観ていこう。



まず、アスカの包帯姿。これは初登場時のレイと同じである。また、アスカの腹をなめてシンジが海に目を向けたとき、海上のレイの姿を見る。シンジが目をこらすと、既にレイの姿はない。1話にも同様のシーンがあるが、これは、レイ=母の役割が、アスカに移っていることを意味すると解釈できる。



問題の、シンジがアスカの首を絞めるのは、母(への依存)を殺す象徴的な行動ではないだろうか。シンジの暴力衝動がこれまで常に初号機(=母)の力を借りて発現していたことを思い出してほしい。自らの手を汚し、その痛みを引き受けることで、シンジはようやく大人(=男)になろうとしたのである。結局(幸いにも?)殺しきれずに泣き崩れるわけだが、ここで注目したいのはアスカの手つきである。シンジの頬をなでるアスカの手の動きは、これまでにない穏やかさ、優しさにあふれて見える。愛撫と言っても差し支えないほどだ。これは母性ではなく、男女関係と解釈すべきであろう。アスカの中に、己を飲み込もうとする母性の闇を見て、シンジはそれを殺そうとする。しかし同時に、アスカは愛されるべき女でもある。それに気づいたからこそ、シンジはアスカを殺せなくなったのである。

また、シンジはこのシーンで一貫して目を見せない。一方アスカの目は、無表情に見開いたままである。このことからも、このシーンは象徴的な意味合いが強い場面と言える。

つまり、一見不条理なこのラストシーンは、「母との別れ」をさらに強調したシーンなのである。



ついでながら、アスカの手の表情の優しさからは、アスカもまた、補完され一つになった世界で、エヴァ2号機の中で何かを見たのではないか、との想像が可能だろう。

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